2007年9月30日(日)~10月6日(土) L.日置一孝
9月30日
上海―西安―戸県
上海浦東空港から西安へ。さすがにこの時期観光客が多くて外人ばっかり。西安に到着すると天気どんより、上海に比べるとだいぶ寒い、沢登に来ているのでちょと心配になる。
西安でまず釣竿を入手、燃料も探すがなかなか見つからない。和平門の辺りのアウトドア屋でようやく発見、水司バスターミナルへ。バスターミナルは家に帰る人たちでいっぱい、戸県まで3時間くらいだったか、まあここまでは順調。
10月1日
戸県7:30―蒋村鎮8:30―甘峪口9:00―幕営地15:30
甘峪口までの行き方を聞くが誰も知らない。とりあえずバスがたくさん止まっているところまで行ってみるが定期便はないらしい。バスの運転手に一番近くまで行くバスはどれかと聞くと、とりあえず蒋村鎮行きに乗れと言うので乗り込む。
蒋村鎮に到着。さあどうしたものか、ここまで田舎に来ると普通の中国語もなかなか通じないが頑張ってみると、電動車のおばさんが連れて行ってくれるという。馬力のない電動車に30分くらい揺られて甘峪口に到着、おばさん言うには戸県からの定期バスもあるにはあるらしい。
甘峪ダムを越えて沢沿いを歩いていく。どうもこのあたりは円借款の保護林となっているらしい。ほう、こんなところで我々の税金が、と思うがその円借款がどのように投入されているかは不明。
土罐坡だと思う。最後の民家を通り過ぎると道も小さくなり、渡渉をしながら進むようになる。甘家梁には廃屋が一軒あるのみ。廃屋の上に水路の跡があり、それに沿って歩いていくと8メートルくらいの直瀑があった。始めてみる滝で、水量多く迫力がある。
この先は踏み跡もますます小さく、ほとんど沢の中を歩くことになる。滝があるわけでもなく、ゴルジュがあるわけでもないが、周りはうっそうとした森、苔むした沢をひたすら歩いていく。日本だと奥秩父に近いだろうか。ただこれだけ山深いのに、何故か大木がない、細い木が多いのはなぜか。
適当なところでツエルトを張る。魚が捕れないかなと竿を持ってうろつくが全然だめ、そういえば歩いているときも魚を見なかった。薪は十分豊富だが、ここ数日天気が悪かったようでなかなか火がつかない。新聞紙がなくなりそう、もうあきらめようかと思ったら蝋燭を持っていることに気がついた。それを半分に切って薪の真ん中に入れて頑張るとようやくついた。これで濡れた服も乾かせる、よかったよかった。
10月2日
幕営地8:00―稜線15:30―首陽山山頂16:00
目覚まし時計なんか使わず、明るくなって勝手に目が覚めてから行動を始める。
奥の二股を右に入るとナメ沢となった。S字状3段12メートルの滝が出現、1段目は歩いて登れた。2段目は水流の中がよさそうだがつるつるで近寄れない、荷物をおろせば行けるかなと思うが、足元も不確かでこれも下ろせない。ハーケン打ってA0すれば左を登れそう、でも打ったら回収できないな、まあ仕方ないか、それなら軟鉄ハーケンを試してみようということで取り出してみる。むう、ちと長いな、たぶん全部入らないな、でもこれしかないからとりあえず打ってみるか。やっぱり途中から入らなくなった。一生懸命たたいてももうちっとも入ってくれない。だめ、やり直しだと抜きにかかるが、軟鉄だからもう抜けない。まてよ、こんだけ頑張って抜けないんだから静荷重なら大丈夫だろう、とカラビナを引っ掛けて登るやっぱり大丈夫だった。よしと思って3段目を見上げると、今度こそつるつるで直登は無理。右の泥壁をプルプルしながら突破。この滝が今回の核心であった。
その跡も小さなナメ滝が続く、一箇所5メートルくらいの滝が登れなくてまたプルプルしながら泥の高巻きをした他はほとんど水の中を歩いていたと思う。
水がなくなる。どこから降ってきたのか洗面器を発見。まさか空から降ってくるわけもあるまい、稜線にはこいつを捨てた奴が歩いた道がある、もうすぐそこだ、と藪に突入。ところがそれが大きな間違い、これがまたかなり猛烈な藪だった。3時間くらい頑張ったか、突然ぽっかりとした小さな草原に飛び出した。花が咲いている。ふみ後が続いているのでたどっていくと、もっと大きな草原にたどり着いた。そのちょっと上が首陽山山頂、遊びに行くと太白山が雲海の中から飛び出している。3700メートルある大きな山、来年は是非あそこに行ってみたい。
家が二件ある。一軒は傾いてもう使っていないらしい。もう一軒は廟だった、すっかりキョンシー映画だ、中に入ると薄暗い中に神様が5人いる。生活道具が多少あるが人がいない、どこに行ったかしらないが、今夜はここに泊まらせてもらうことにする。布団もあって快適、神様の隣で寝た。
10月3日
首陽山山頂8:00―観音山12:00―登山口15:30―旅館17:00
廟の住人は結局現れなかった。賽銭を残して出発。本当は継続遡行をする予定だったが、計画より遅れているから、天気が不安定だから、寒いから、藪こぎが嫌だからといろいろ理由をつけて登山道を下る。かなり明瞭な道。しかし下るにつれてゴミが多くなる。ゴミだらけ、ゴミだらけ、ゴミだらけ、まったく嫌になる。
地図で現在地は把握しているものの、いったいどこに下るのか、わからず歩いていると、前方のピークに民家を発見。おお、あんなところに家が、人がいるのか知らないがとにかく行ってみようと近づくと、祠があったり畑があったり、人のにおいがぷんぷんする。これも廟だった。下までくるとにぎやかな話し声がしてきた。
とりあえずニイハオ。おじさんたちぞろぞろ出てきて、どこから来たんだ、今登ってきたのかと質問攻め。日本からだよ、今首陽山から下りてきたところだよと言うと、おお、日本人かとおじさんたち大喜び。首陽山からだと昨日はどこに泊まったんだ、どこから登ったんだと聞いてくるから、甘峪河を稜線までつめたんだよ、一昨日は沢で寝たよ、昨夜は山頂の廟だよと言ったら、おお、いい度胸しているなとおじさんたち大興奮。
ちょうど飯の時間だ、食っていけと中に引きずり込まれ、うどんとマントウをご馳走してくれた。トマトのかけらと葉っぱの切れ端が浮くだけの粗末なものだったが、昨日、一昨日と白飯にスープだけだったので非常に美味い、たっぷり食えと言うので遠慮なくおかわりさせてもらった。
すっかり世話になってしまった。でも廟なので賽銭と言う名目で気兼ねなくお返しができるのがよい。廟のおじいさんに道の分岐まで送ってもらった。結構いい歳なのにしっかりした足取りで速い、こんなところに住んでいるのだから当然か。
観音廟をすぎるとゴミはますます多くなる。親切にしてもらった後だったので本当に悲しくなる。途中廃屋が数軒、みな潰れている。人の住んでいる村に着くともう麓は近い。結局下りたのは大耿峪河だった。
登山口に下りるがまだ山の中だ、道路を下っていく。旅館がちらほら、どこも国慶節の旗だの提灯だのを飾っているが、中には一年くらいそのままにしているんじゃないかというところも。そういう旅館には泊まりたくない。
できるだけ下に下りてから泊まりたいなと歩くがいい加減疲れてきた。適当な旅館に入る。30元くらいだったか、まあそんなものだろう。ところがこの旅館身分証も見せろと言わないし、客かと思っていた人たちは土方のおっちゃんたちで宿泊客は自分ひとり。まあ何もなかったけれど、はっきり言って失敗だった。
10月4日
旅館―戸県―西安
天気が良かったら適当に小さな沢をもう一本と思っていたが、天気はやっぱり良くない。西安に戻ることにした。大きな道まで歩いていくとすぐに西安行きのバスが通りかかった。
10月5日
西安
せっかくの西安、せっかくなので兵馬俑を観光する。確かにすごい、すごいのは認めるけれど、何と言うかあきれる。
10月6日
西安―上海
ようやく帰宅。